走れ!アカマツ

辻三蔵赤松真人のファンだ。
赤松がいないカープなんて考えられない。
それぐらい、赤松が好きだ。

赤松真人阪神タイガースから広島東洋カープに移籍したのは2008年。
FA移籍した新井貴浩人的補償選手としてカープにやってきた。

平安高校立命館大学を経て、2005年にドラフト6位で阪神タイガースに入団。
背番号52。
セリーグ随一のリードオフマンだった背番号53の赤星憲広と1、2番を打つ俊足巧打の外野手として期待されていた。
しかし、阪神の外野はライト濱中、センター赤星、レフト金本とレギュラー陣が固定されており、赤松の1軍出場は3年間で36試合に留まった。

赤松が入団した2008年はカープにとって球団存亡の危機だった。
投打の主軸を務めた黒田博樹新井貴浩がFA移籍。
広島市民球場最終年をエースと4番不在で迎えることになった。
絶望から始まった2008年。
4月27日から1番センターに定着したのが赤松だった。
背番号38。

永久欠番である衣笠祥雄の背番号3、山本浩二の背番号8を足して2で割ったような選手になって欲しい。
カープファンの希望を一心に背負った赤松は、スタメン入りした4月27日から7試合連続安打を記録。
圧巻だったのは4月29日からの巨人3連戦。

4月29日、先発グライシンガーから先頭打者ホームラン。
プロ入り4年目で初本塁打を放った。
4月30日、先発高橋尚成から2試合連続の先頭打者ホームラン。
5月1日、先発木佐貫洋から3ランホームランを打った。
3試合連続本塁打を放ち、首位巨人に2勝1敗で勝ち越した。
1番赤松の躍動がカープに勢いをつけた。

2008年の広島東洋カープは69勝70敗5分、勝率.496で4位。
黒田と新井が在籍していた2007年(60勝82敗2分、勝率.423)を大きく上回る成績を残した。
惜しくもクライマックスシリーズ進出を逃したが、マツダスタジアム誕生年に期待を持てる1年になった。

2008年は高卒2年目の前田健太が9勝し、大エースの道を歩み始めた。
2016年のセリーグ優勝の原動力になった丸佳浩小窪哲也松山竜平安部友裕が入団したのも2008年だった。

赤松真人の2008年は125試合出場、打率.257、本塁打7、打点24、盗塁12。
代打中心の起用になった緒方孝市(当時40歳)、前田智徳(37歳)に代わり、走攻守三拍子揃った外野手として新生カープの象徴になった。

あれから8年。
赤松真人は代走、守備固めのスペシャリストとして縁の下を支えている。
6月14日西武1回戦では史上初となる「サヨナラ・コリジョン安打」を放った。
カープにとって32年ぶりの11連勝につながる劇的勝利。
途中出場でサヨナラヒットを打った赤松はヒーローインタビューをこの言葉で締め括った。
「レギュラー、ベンチは関係なく、フィールドに立つ以上、全員がレギュラーという気持ちで一生懸命頑張るだけですね」

レギュラーとして活躍した時期もあった。
2009年には自己最多の137試合に出場。2010年にはゴールデン・グラブ賞を受賞した。
しかし、2010年の113試合を境に、試合出場は徐々に減っていった。

チームに貢献するために何ができるのか。
守備、走塁に全力を注ぐここ一番の切り札、ベンチを盛り上げるムードメーカー、ベテランと若手をつなぐ兄貴分として不可欠な存在となった。
赤松なくしてカープの優勝はなかった。
そう断言できる。

12月28日、赤松真人は球団事務所で緊急記者会見を開き、初期の胃がんであることを明らかにした。
今思うことは、赤松がマツダスタジアムを疾走している姿を来年も見たい。
ただそれだけでいい。